History of Buan

  1. 三韓時代

    • 扶安郡は三韓時代(紀元前後から3世紀頃まで)には、馬韓(マハン)に属し馬韓54カ国のうち支半国(チバングク)が今の扶安地域であると推定される。支半国は4世紀頃百済の南方征服により周辺国とともに百済に降伏した。
  2. 百済時代

    • 百済時代において扶安地域は政治、軍事、海洋の重要な要衝地として位置づけられた。竹幕洞海洋祭司遺跡地が残っており、周留城は百済が滅びた後、百済復興運動の始点であり首都でもあった。 行政上では、皆火(ケファ)と欣良買(フンリャンメ)の二つの村に分かれ、中方古沙城に属した。
  3. 新羅時代

    • 新羅が三国統一がなされた後である西暦757年(景德王16)に皆火県が扶寧(プリョン)県(または械発とも)に、欣良買県は喜安(ヒアン)県に改称された。扶寧県と喜安県は古阜の属県であった。
  4. 高麗時代

    • 喜安県が保安(ポアン)県に改称され、扶寧県はそのまま扶寧県で呼ばれた。別称として喜安県は浪州、保安県は扶風とも呼ばれた。 保安県と扶寧県は古阜府に隷属されていたが、睿宗(高麗第16代目王)の代になって扶寧に監務という地方官が設置された。高麗末期の禑王の代では、保安県と扶寧県にそれぞれ監務が設置され朝鮮朝まで維持された。
  5. 朝鮮時代

    • 1414年(太宗14)∼1416年(太宗16)の間に地方管制の改正により扶寧県と扶安県の合併と解体が数回行われ、1416年に「扶寧」の「扶(プ)」と「保安」の「安(アン)」という字にちなんで「扶安(プアン)県」に改称された。その翌年には興徳鎮が扶安に帰属され扶安鎮となり、兵馬使が裁判官を兼職することとなった。1423年(世宗5)には僉節制使に改称され、さらにまた県監に改称された。1895年(高宗32)に全国の府・牧・郡・県の名称が郡に統一されたことにより、扶安郡と呼ばれるようになった。
  6. 日本統治時代

    • 日本統治時代において1914年の行政区域改編に伴い、蝟島は全南霊光郡に、飛雁島は群山市に編入された。その代わりに古阜郡から白山、巨麻、德林の3つの面が扶安郡に編入した。 1943年、扶寧面が扶安邑に昇格し、1邑9面となった。
  7. 現代

    • 1963年のの行政区域改編に伴い 全羅南道霊光郡の蝟島面が扶安郡に編入された。 1978年には界火島の干拓工事完了により面積が3,968ha増加し、 1983年にが山内面から鎮西面が分離され、界火面と鎮西面が新規設置された。現在の行政区域は1邑12面であり、面積は493.35㎢ (農耕地42%、林野42%、その他16%)である。 扶安郡は東経126度40分、北緯35度40分に位置し、全北特別自治道の西側にあり、群山市とは海を間に面しており、北東に金済市、南東には鄭邑市、南には高昌郡と接している。海岸線は東津江河口から茁浦面面牛浦里までの99kmであったが、セマングム防潮堤完工後である現在は66kmの海岸線が海と接している。 東側が低くて西側が高い地形として黄海へ向けて飛び出ている半島であり、南西部は辺山に囲まれていて、北東部は広くて肥沃な平野をなしている。このような地形と北西季節風の影響により冬季には雪が多く降る気候特性を持っている。